【サッカー】トルシエが語る中田、俊輔、小野。 そして世界の扉を開けた森島寛晃。http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1587288587/

1: アレ浦和 ★ 2020/04/19(日) 18:29:47.60 ID:Pq3fZmOZ9.net
フィリップ・トルシエインタビューの続きである。話題はU-21アルゼンチン戦の中村俊輔のゴール(
https://number.bunshun.jp/articles/-/843237)から、中田英寿、中村俊輔、小野伸二という、2000年代の日本を代表する3人の選手について、さらにはトルシエが中村のゴールと並んで日本の運命を変えたという、日韓ワールドカップにおける森島寛晃のゴールへと移っていった。
――中村のゴールに話を戻します。稲本潤一と福田健二のワンツーが相手にわたり、それを俊輔がすぐに自分のものにして技術の高さを示して決めたわけですが。
「本当に魔法のようなゴールだった。サッカーで最も素晴らしいゴールは常に精巧だが、決めるためにはまずアルゼンチン守備陣の中に入っていかねばならない。それにはショートパスやワンツーが必要だ。また俊輔も、GKが前に出ていることを知らないと打てない。彼の示した動作は適切だった。
そこに資質が現れるが、彼は状況をコントロールした。自分がどこにいて、GKがどこにいるか状況を的確に把握した。それから彼は稲本のパスをよく見ていた。そこでボールを保持すべきかドリブルすべきかどうか、どのタイミングでシュートを打つかの判断も正しかった。
サッカーの3つの基準を完璧に満たしていた。
さらに効果的な動きの実現という点でも、彼の仕上げは完ぺきだった。つまりサッカーを評価するための根本的な3つの基準――状況把握と判断、動作――を完璧に満たしていた。
ふたつのことがこのゴールにはあった。ひとつは今言ったように3つの基準が完璧に満たされていたこと、そして卓越した技術と知性を持つ選手がそれを実現したことだ。だからこのゴールは私にとって、これからスタートしようとするプロジェクトの象徴となった。日本はディシプリンに溢れる方向を目指し、サムライの道を目指し、より技術的な道を目指す。サッカーのよりモダンなアプローチをとりながら」
中田、中村、小野の3人の関係性は?
――当時は中田英寿、中村俊輔、小野伸二という3人の才能あふれた選手がいました。あなたにとって彼ら3人はどんな違いがありましたか?
「3人は補完しあっていた。ヒデ(中田)にはフィジカルの強さ、力強さがあった。またパーソナリティもあった。だが中でも目立ったのはフィジカルの強さだ。決して怪我をしないし、力強く、大きな動きを作り出すことができた。技術的にも確固としたベースがあるから容易にボールを失わないし、攻撃でも効果的な動きをすることができた。
繰り返すが3人は補完的だった。それぞれのパーソナリティは異なっていたが、選手としてのクオリティは同じレベルにあった。プレーをよく理解して、そこから最善の判断を下し、高い技術力でそのアイディアを実現する。3つの基準を彼らは才能として付与されていた。
>>2に続く
2020/04/18 11:55
Number
https://number.bunshun.jp/articles/-/843239?page=1 2: アレ浦和 ★ 2020/04/19(日) 18:30:43.19 ID:Pq3fZmOZ9.net
もちろん人間的な個性は異なるし、プレーにおける役割も違っていた。俊輔には左サイドでプレーすることを私は要求した。ヒデには右サイドと中央のどちらでもプレーすることを求めた。伸二はどのポジションでもプレーができた。ワールドカップで彼は、(負傷でメンバーから)外れた俊輔に代わり左サイドでプレーした。つまり3人のなかでは伸二が最もポリバレントだった。
同じレベルにある3人の選手が、ひとりは左でプレーし、もうひとりは右でプレーする。さらにもうひとりはどこでもプレーができる。そういう意味で彼らは補完的だった。
3人はチームを象徴する選手でもあった。日本サッカーのポテンシャルを彼らが体現していたといえる」
小野は本来サイドの選手ではない。
――昨日、私はたまたま2つの試合を見返しました。ひとつは2001年秋の日本対イタリア戦(11月7日、埼玉スタジアムでの試合で、1−1の引き分け)です。改めて見ても凄い試合だったと思います。
「本当に素晴らしかった。戦術もアグレッシブさも申し分なかった」
――小野伸二が左サイドからゲームを作っていたのは見事でした。
「重要なのは、彼は本来サイドに求められる要件を満たしている選手ではないことだ」
――当時としては新しいコンセプトだったと思います。
森島のゴールで日本は世界に認知された。
「それで君が見たもうひとつの試合というのは?」
――ワールドカップの日本対チュニジア戦(2002年6月14日、大阪・長居)です。
「チュニジア戦はまた全然別の試合だった。とてつもなく大きな緊張感があった。森島(寛晃)のゴールについてはここまで語らなかったが、あれもまた日本の運命を変えたゴールだった。まずあのゴールで日本のグループリーグ突破が決まった。グループ1位を確保し、日本は史上初めてワールドカップの決勝トーナメントに進んだ。またあのゴールは、私のコンセプトのもと4年間やってきたことを表現していた。
>>3に続く
3: アレ浦和 ★ 2020/04/19(日) 18:31:26.09 ID:Pq3fZmOZ9.net
同時に世界への扉を開いたゴールでもあった。日本が世界に認知されたからだ。あそこから日本の選手たちは世界に認められ、次々と海外に出て行った。森島のゴールこそは、世界への扉を開ける鍵だった。だから君から運命を変えたゴールを選んでくれと言われたとき、私は躊躇なく中村と森島の2つのゴールを選んだ」
「ここで挫けては駄目だ、チュニジアを叩こう」
――森島は負傷した柳沢(敦)に代わり、後半スタートからの投入でした。同時にあなたは、稲本に代えて市川(大祐)もピッチに送り出しました。日本のリズムを少し変えたかったのでしょうか?
「その通りだが、それは監督の決断だ。もう少し縦の深さが欲しかったし、縦のスピードが欲しかった。試合は拮抗していて、われわれは実質的に引き分けでも突破できる状況だった。しかし失点はできない状況でもあり、プレッシャーはかなりきつかった。賭けるものはとても大きかった。だから選手もときに迷いが生じ、何をしたらいいのかわからなくなっていた。
きっちりとプレーをして打開策を見出す必要があったし、精神を解放する必要があった。しばしばプレーがマヒしてしまい、簡単な試合ではなかった。だが、選手たちが気持ちの強さを見せたのもまた確かだ。彼らはしっかりとそこに存在し、要求に応えた。
だからハーフタイムの指示も、私は選手たちに違いを作り出すことを求め、『勝とう』と言った。『ここで挫けては駄目だ、チュニジアを叩こう』と。『残りの時間は試合を支配して勝って戻ってこよう』と。
森島は大阪のクラブ(セレッソ)にいて、代表の重要な選手のひとりでもあった。地元の大阪で何かやるのではと密かに期待していた。彼がピッチに入れば観衆も沸く。それも考慮しての投入だった。
繰り返すが森島のゴールが運命を変えた。確かに歴史に残るような見事なゴールではないかもしれない(相手DFのクリアしたこぼれ球を、ダイレクトでループ気味に蹴りこんだもの)。しかし突破を決めたゴールであり、運命を変えたゴールだった。1位になるのも突破するのも、日本にとって初めての経験だった。日本が目的を達成したゴールだ。私にとって目標はグループリーグの突破だったのだから」
――使命が成し遂げられたわけですね。
「4年間の使命が達成された。そして認知度の面で世界への扉が開いた。運命も変わった。それが今回のテーマなのだろう?」
――その通りです。
「そう思って私もいろいろ考えたよ(笑)」
――とても興味深かったです。メルシー、フィリップ。
<完>
posted by カルチョまとめ管理人 at 20:02
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